これは昔、豊田東高校(現在は豊田市博物館)のフェンス外の斜面の土の中から拾ったもの。周囲には多数のガラスビーカー、試験管などが埋まっていて、大昔のゴミ捨て場であったようだ。
挙母裁縫補習学校の焼印
(作成2024-12-14)
挙母裁縫補習学校(裁縫専習学校)の焼印
破損しているうえ、わかりにくいが、「挙母裁縫」までが読み取れ、鏡文字なので焼印と思われる。ちなみに、私が小中の時ですら、学校には木製の什器がたくさんあり、現在の備品ラベルの代わりに学校名の焼印が机・椅子の支柱に押されていた。
で、問題は、「挙母裁縫」の意味するところであるが、これは大正から昭和初期に存在した「挙母裁縫補習学校」(若しくは改称前の「挙母裁縫専修学校」)であろう。その沿革は以下の通り。
大正3年4月1日 挙母尋常高等小学校に裁縫女学校附設する。(資料1 p101)
大正6年6月30日 挙母裁縫専修学校、裁縫補修学校となる。(資料1 p106)
昭和9年4月1日 挙母青年訓練所、挙母農業公民学校、挙母裁縫補修学校を廃し、挙母青年学校を附設する。(資料2 p2)
焼印全体は、下図のとおり。長さは約30㎝。。

<焼印部分>

焼印部分(幅2.5cm)。鏡文字なのでわかりにくい

そこで、左右反転させた画像と対応する漢字。縫の文字は上半分だけが残っている。
<挙母裁縫補修学校が存在した童子山の地図>
昭和2年の地図について、上から、高等女学校(現、豊田東高→博物館)、高等小学校(現、童子山小→美術館)で、実業補習学校が挙母裁縫補習学校と思われる。なお、大正14年において挙母地区の実業補習学校には、挙母裁縫補習学校と挙母第一農商補習学校が存在した(資料4 p695)。

昭和2年 大日本職業別明細図之内 信用案内(資料3 p118)

昭和7年 大日本職業別明細図之内 信用案内(資料3 p122)
<参考文献>
資料1:挙母 資料に見る 明治 大正 昭和のあゆみ(豊田市郷土資料館編集 H7発行)
資料2:百年史 童子山(山の学校)(童子山小学校(山の学校)百周年記念誌編集委員会 S61発行)
資料3:地図でみる近代の豊田(豊田市生涯活躍部文化財課市史編さん室編集 R5発行)
資料4:豊田市史3(豊田市教育委員会、豊田市史編さん専門委員会編集 S53発行)
