猿投山の大崩壊地はどこ?

(作成2025-2-3)

 猿投山の達人さんの【36話ずっと探しているものの話】(←リンク 別タブで開きます)を読んで、初めて「所在不明の大崩壊地形」を知った。40年以上も前の高校の時、猿投山の地質に少しだけ興味があったが、そんなものは知らない。


 ネットでは2015年頃、neo☆n氏(←リンク 別タブで開きます)、luneaciel氏(←リンク 別タブで開きます)、てっぱん氏(←リンク 別タブで開きます)が探索されているが、「大崩壊地形が発見された!」という記事がみつからない(各氏の記事は何度も読み、参考になりました。ありがとうございます。)。


 そもそも、「大崩壊地形」は、第一駐車場の大看板の「猿投山登山案内図」に書いてあったものである。過去形としたのは、この看板が2019年3月頃、更新されてしまったためである。


 まずは、ネットを中心に「大崩壊地形」に関する資料を調べてみた。が結論を言えば、元ネタが同じと思われる複数の地図しか見つからない。しょうがないので、まずそれらの地図から見てみよう。

(1)大崩壊地形を記した地図

 前述のようにネット・書籍で、大崩壊地形を記した資料を探すと、絵柄から元ネタが同じと思われる地図1~4しか見つからない。地図1は、第1駐車場の大看板に描かれていた地図で、そこに描かれた御岳山は噴煙を上げており、これをもとに、猿投山の達人氏、neo☆n氏は、この看板は1979年頃に作成されたと推測している。まさに慧眼。猿投山の達人氏とneo☆n氏のこの推測がなければ、私の調べは進まなかった。


 地図に話を戻すと、地図1と同様、地図2の御岳山も噴煙を上げている。よって、下に示す地図は、古い順に、地図1と地図2>地図3>>地図4と判断できる。だが、図がアバウトすぎて、これらの地図から大崩壊地形の場所を特定できない。なお、後述の通り、地図4はちょっと特殊で信用が置けないと思う。

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  • 【地図1】2019年まで第1駐車場に存在した大看板
    写真は猿投山の達人さんのHPから使わせて頂きました。達人様、お礼申し上げます。(画面クリックで拡大)
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  • 【地図2】第2駐車場に存在したらしい看板
    地図1と同じ図柄。しかし、水彩画風になっている。大崩壊地形の位置は地図1と同じ。
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    図は、登山と温泉のブログ(←リンク)様のサイトから引用しました。お礼申し上げます(画面クリックで拡大)
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  • 【地図3】ぶらぶらてくてくガイド(昭和63(1988年)年 豊田市)
    大崩壊地形の位置は地図1・2と同じ。御嶽山の描画なし。(画面クリックで拡大)
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  • 【地図4】子供とハイキング!!様に掲載された地図
     この地図では、大崩壊地形らしきガケが、避難小屋と武田道分岐の間に存在している。しかしこれは信頼できないと考える。理由は、おいでんバスが掲載されているので、近年の作成だからだ。
     この地図は、地図1に武田道を追加する際、どこに武田道を追加すればよいかわからなかったため、追加しやすい部分に武田道を追加したのだろう。その結果、ガレの位置がそのようになった。しかも大崩壊地形の意味が分からなかったのだろう。大崩壊地形の文字を削除している。(画面クリックで拡大)
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    図は、子供とハイキング !!(←リンク)様のサイトを引用しました。お礼申し上げます。

(注)ごく最近の資料であれば大崩壊地形というワードは、(1)YAMAPの猿投山の説明「・・・途中、大崩壊地形やツガの大木、奇岩・カエル石など見どころも多く・・・」とか、(2)パンフレット「猿投山散策マップ」の古い版で「・・・「ナギ」は谷・大崩壊地形をあらわし・・・」がヒットする。しかし、どちらも何を示すのかわからないまま大看板(地図1)の大崩壊地形という言葉を引用したのだろう。なお、地学等において「大崩壊地形」という専門用語は、ないと思う。


(注)地図1と地図2の全体図を見てもらうとわかるが、これらの題名は「猿投山 登山案内図」である。実は、「豊田の昆虫Ⅲ(猿投山の昆虫1)」(平成元年出版)という本に、車道と山道しかないような地図が掲載されているが、その地図には、”豊田市観光協会「猿投山登山案内図」に基づく”と書いてある。このため地図1・地図2の作成には豊田市観光協会がかかわっているのかもしれない。

(余談)1979年の御岳山の噴煙

 御岳山の噴煙がそんなにポイントなのかと思われるかもしれないが、1979年の御岳山の噴火では、しばらく噴煙があがっており、豊田市街地から噴煙を見ることができた。当時、私も自宅や高校の教室から噴煙を上げる御岳山を肉眼で見ていた。”死火山”と思われていた御岳山が突然噴火して、世の中の多くの人が驚いた事件で、死火山などの定義も見直された。

 地図1や地図2の御岳山は、手前に三国山とそのアンテナが描かれていることから、山頂から眺めた御岳山をイラストにしたものだろう。猿投山登山の見どころの一つとして、書き加えられたのだろう。


 それはともかく、とりあえずネットを中心とした調査は行き詰った。そこで、前述の猿投山の達人氏、neo☆n氏の推測「大看板の作成は1979年頃」を元に、その年代の資料を漁った。あれこれ探すと、次項で述べるような発見があった。驚くことに、私が40年前から自宅に保管していた資料、しかも目に付く場所に保管していた資料に、大崩壊地形の文字が見つかったのだ。

(2)奥村光信氏の手書き登山地図に書いてあった大崩壊地形

 奥村光信氏を御存じだろうか。GPSがなかった1980、90年代、鈴鹿を中心に、素晴らしい手書きの地図を多数作成され、(私が思うに)”手書き登山地図(絵地図)”という新しいジャンルを開拓された方である。登山道の特徴を的確に把握し、それを正確に描画する画力・・・という二つの素晴らしい才能を持っておられた方である。

 奥村さんの地図は、長い間、鈴鹿山地沿線の三岐鉄道の駅などに置かれており、年配の方は、お世話になった方も多いと思う。私にとっても、藪山のような鈴鹿で必需品だった。


 私は約40年前の1987年、奥村さんから直接、大量の手書き地図を頂いており、今回の調査において確認したところ、奥村氏が「後藤ぶどう園」の後藤さんの案内で、1980年10月12日初めて猿投山を登った際の地図を見つけた。


 で、そこには、’現在’の武田道分岐のベンチとその上の鉄製桟橋の間に、崖のイラストとともに、大崩壊地形・柵(サク)と書いてあったのだ。誰でもわかると思うが、大岩展望台の西側である。


 これを見た瞬間、「あぁあそこか!」と思った。確かに、あそこはガケ地形だし、御門杉から東の宮の間で、谷側に柵や擁壁がある危険地帯はあそこしかない(桟橋、観察路を除く)。また、大看板に記された大崩壊地形の位置は、素直に読めば’現在’の大岩展望台のすぐ西側だ。


 ただ致命的に悩ましいことがある。奥村さんの多くの地図は、有志の方がネットで公開されている(urlは次項にあります)。念のため、公開版を確認したところ、公開版には、私が奥村さんから頂いた地図と微妙に違いがあり、肝心なことに、公開版には、大崩壊地形を「ガレ」としか説明していない。


 悩ましすぎる。私が頂いた地図は奥村さんからの私信なので、(現時点では)ここでの掲載は避けたい。代わりに公開版の地図を掲載する(下図。画面クリックで大きくなります。)。

【図1】1980年の奥村さんの猿投山の手書き地図(公開版)

 繰り返しになるが、公開版の地図(図1)は、1987年に私が奥村さんから直接頂いた地図と異なり、「大崩壊地形」ではなく「ガレ」としか書いてない。また、登山道脇の「柵」文字もない。

 ところで、一応、上図について説明したい。避難小屋の上にあるベンチと標識は、現地を見れば、武田道分岐のベンチを指すことは間違いない(注:当時、武田道は一般登山者が歩くような道ではなかったのだろう。それで武田道分岐が書いてないと推測。)。で、ベンチの上にガレが示されている。ガレと登山道との間の”くの字”は柵を意味する。また、登山道がゲジゲジになっているのは階段を指す。現場が目に浮かぶ。奥村さんの的確な地図表現がわかってもらえると思う。

 なお、なぜ大看板や奥村さんの地図に、大岩展望台が書いてないのか?と思われるかもしれない。おそらく当時、大岩展望台はなかったと推測する。なぜなら、このあたり、昔の資料を見ると、大岩に行かなくても展望が良かったのだ。実際、地図1を見て頂くと、観察路分岐に、「豊田市街の眺望いい」と書いてある。避難小屋ですら、眺望良しとかいてある本がある。今では信じられないが・・・。

(参考)奥村光信さんの手書き地図の公開サイト

★奥村さんの地図は、「通風山」様が「やぶこぎネット」で公開されています。

(猿投山は、西三河の上から7番目にあります)

やぶこぎネット 奥村さんの絵地図(←リンク 別タブで開きます)


 前述の通り、奥村さんの地図は、GPSなき時代の登山地図の究極のあり方の一つと思っています。ぜひとも上記サイトをご覧頂ければ幸いです。ただ、古い地図なので利用には注意が必要です。特に、鈴鹿は2008年の記録的豪雨で登山道が劇的に変わってしまったと思います。


 ところで、奥村さんから大量の手製の地図を頂いた40年前、私は学生でした。このため、お手紙でのお礼しかできなかったのが残念です。この場を借りて、改めて奥村様にお礼申し上げたいと思います。

(3)現在のガレ(大崩壊地形の候補地)の様子

 現場は、猿投山の達人氏、neo☆n氏、luneaciel氏が推測しているとおり、「落ち葉や木々が茂って今ではわかりにくくなっている」という状態です。各氏の推測は正しかったと思います。しかし、奥村さんが歩いた1980年は、一目でガレとわかる状態だったと推測されます。

【図2】武田道分岐方向から見あげた現場の歩道(2025年2月)

【図3】ガレの中央部分付近の現場の歩道(2025年2月)

【図4】ガレの中央部分付近のガレの下方(2025年2月)

【図5】観察路分岐方向から見降ろした現場の歩道(2025年2月)

(4)国土地理院の空中写真でガレのおよその発生時期を特定

 前述の通り悩ましいこともあるが、地図作りに類まれな才能を持つ奥村氏が、大岩展望台の西側のガレを一時的かもしれないが、大崩壊地形と認識したことは確かだ。そこで補強材料を調べた。


 手掛かりは、1980年に奥村氏があの場所を大規模崩壊地と認識したことから、当時、あのガレは新鮮だった可能性が極めて高いということである。その観点から調査を進めた。


 すると、国土地理院の空中写真のサイトから、あのガレは1972年5月から10月のどこかで発生したと特定できた(下図)。東の宮の鳥居の南方で、1972年5月に何事もなかった場所が、わずか5か月後の10月には大規模に崩れていたのが鮮明に映っていたからだ(画面クリックで拡大)。

【図6】国土地理院の空中写真(1972年)

 モノクロ写真は見にくいので、時代は進むが、カラーで撮影された1977年の写真を見てみよう(下図)(画面クリックで拡大)。

【図7】国土地理院の空中写真(1977年)

 えっ、これでもどこかわからない? では、現在の登山道のGPSの軌跡を合成してみよう(下図)(画面クリックで拡大)。

【図8】国土地理院の空中写真(1977年コメント付き)

 崩落は、武田道分岐の上、大岩展望台の西側で発生し、歩道付近から谷底に達して、更に流下していた。まさに奥村さんが地図で描いた図1のガレ(大崩壊地形)のとおりだ。なお、観光展望台方面からの直線は索道だろう。林業のためか、修復のためかは不明だ。看板が作成された1979年頃や奥村氏が訪れた1980年からすれば、土砂崩れは、遠い昔の事件ではなかったはずだ。

 次に現場を拡大してみよう(下図)(画面クリックで拡大)。 奥村さんは、1980年10月12日に自然歩道から、この景色を見下ろしながら登山し、手書き地図を描いたわけだ。大げさすぎるネーミングだが、ここが「大崩壊地形」である可能性が高い。

 なお、話はそれるが、画面の右下に水色の四角いものが写っているように見える。だが、これは避難小屋ではない。複数の写真から判断すると裸地が屋根のように写っているものと判断した。現地で確認すると、場所は武田道分岐から下って、左手の尾根が切れたあたりである。

【図9】崩落地の拡大図(1977年)

 次に、大看板と空中写真を比較してみよう(下図)(画面クリックで拡大)。当然ながら、観察路分岐、崩壊地形、避難小屋の位置関係は似ている。猿投山の達人さんのサイトを読むと、猿投山にはテキトーな地図や看板が実に多いことが印象に残る。私は、大看板もテキトーな地図の仲間と思い込んでいたが、意外なことに大看板のこの部分は、テキトーな地図達に比べれば、まともらしいことがわかった。すみません、大看板の作者さま。

【図10】大看板の地図と空中写真の比較

(5)東海自然歩道との関係

 ここまでくると、気になるのは東海自然歩道だ。wikiによれば、東海自然歩道は1969年に厚生省で発案、全国整備は1974年とある。なので、1972年5月から10月のどこかで発生した、あのガレは、まさに、猿投山の自然歩道の整備直前・直後か、工事中に発生したことになり、関係者はとても驚いたことだろう。

 なお自然歩道は、予算が確保できた市町から工事を始めたことから、整備完了年は市町によって異なることが別資料からわかった。

(6)あのガレの発生原因の憶測

 現場でガレを確認すると、特徴的な擁壁に気づく。穴が2つ開いており、しかも塩ビ管が埋め込まれたブロックが使われているのだ(図11)。

【図11】大岩展望台の西側のガレの擁壁と、2つ穴があいたブロックの拡大写真

 実は、この擁壁は別の複数の場所にも存在する(図12~15)。同時多発的な土砂災害か?。なら、原因は大規模豪雨? 勿論、自然歩道整備工事と、ガレ崩落の修理工事の時期は接しているので、同じ工法だからと言って、ひとつの豪雨で崩れたとは断言はできない。その一方、すぐに頭に浮んだのは、「小原と藤岡に壊滅的な土砂災害をもたらした伝説級の豪雨って、いったいいつだろう?」という疑問。まさか?と思って調べると、ビンゴ!

  ■昭和47年7月豪雨 1972年7月12~13日(豊田市での被害期間)

 空中写真で判明した崩落期間の1972年5~10月にピタリと一致する。「昭和47年(1972年)7月豪雨」は、豊田市にとって「伊勢湾台風」「東海豪雨」と並ぶ最大級の気象災害だ。


 そうなると、市内の自然歩道の正確な整備完了年が、いつなのか気になった。手こずったが、図書館でわかった。

  ■豊田市内の自然歩道の整備完了 1972年4月1日

もしあのガレが7月豪雨で発生したならば、自然歩道の完成を宣言した、わずか3か月後に、多分、歩道も巻き込んで、崩落したことになり、関係者の驚きはいかばかりか・・・。

【図12】東の宮の鳥居と東の宮の間の谷1

【図13】東の宮の鳥居と東の宮の間の谷2

【図14】東の宮の西側の鉄製桟橋の上

【図15】東の宮の西側の鉄製桟橋の下

(余談)昭和47年(1972)7月豪雨の猿投山への影響

 昭和47年(1972)7月豪雨は猿投山にどんな被害を与えたのだろう、当時の中日新聞を調べたが、小原の被害が大きすぎて、猿投山の事なんて書いてない。あれこれ調べたら、「東海自然歩道(犬山-中山道・瀬戸-秋葉神社)読売テレビ編」(創元社 1973.8)という本に、「・・・・(猿投)山の斜面のあちこちで小川が流れており、あちこちで水車がかかっている。落差を利用した水車で、サバ土をくだき、優れた陶土にかえているのである。しかし、47年7月、豪雨でほとんどの水車小屋が泥水に押し流されてしまった。小石をつぶすのも電力にかわりつつある。・・・・」と書いてあった。また、豊田市の資料に猿投1号橋(注:第一駐車場のひとつ下の橋)などに被害が出たらしい。

 その一方、猿投山での被害は、小原や藤岡よりはるかに少なかったと思う。右図は、猿投山から東にわずか6km離れた藤岡村木瀬地区の空中写真(1972.10)だ。ありとあらゆる谷が崩れている。猿投山(図6の下図)とは大違いだ。この豪雨は線状降水帯と想像されている(出典:見てみよう!歴史災害記録と旬のあいち vol85←リンク pdf)。猿投山はかろうじて強雨帯から外れたのだろう。

 ところで私は、子供の時のこの豪雨をぼんやり覚えている。自宅近くの豊田東高(現博物館)のグランドが臨時ヘリポートになり、発着する救援ヘリの底を自宅から見上げていた。大変な事が起こったと騒がしかった。

(7)まとめ

 今回、奥村さんの地図をきっかけに、大岩展望台の西側のガレは自然歩道整備完了直後の1972年5~10月に発生したことを明らかにした。もしかすると歩道整備が完了して、わずか3か月後の昭和47年(1972)7月豪雨で発生した可能性まである。その影響で、駐車場の大看板に、ここが「大崩壊地形」として記されたものと推測した。

 崩落から7年もすれば、土砂崩れ自身やその修復作業も、猿投山の(社会的・自然科学的な)見どころの一つとして評価され、大看板に記されたのであろう。看板に描かれた大崩壊地形の位置とも一致する。

 が、残念ながら、今回は「●●が大崩壊地形である」と記した疑義のない文書が見つかったわけではないので、正確には、有力な候補地が見つかったというところだろう。まとめて書くなら下図の通り。

(おまけ)現場付近の3D表示

 国土地理院の3D立体表示のテクスチャを、同じ範囲の国土地理院の空中写真に差し替えています。適当に差し替えたので、厳密には写真と標高が一致していないと思います。また、高さは強調しています。パソコンなら、マウスでグリグリ動かしてください。拡大縮小はマウスホイールです。スマホなら、指でスワイプしてください。ピンチイン・ピンチアウトで拡大縮小です。なお、動かない機種・ブラウザがありましたら、ご容赦ください。「出典:国土地理院撮影の地図・空中写真閲覧サービス及び空中写真(1977年撮影)」

関連項目

元の地図? https://yuuyuusyumi.blogspot.com/2018/05/blog-post_22.html